昭和50年04月01日 勧学祭



 今日は月次祭に併せて勧学祭、そして引き続いて合楽のマルショウの方達が、ここに集うようになって、今日で八回目を迎える。年々歳々おかげを頂いて、会員も有り難いお育てを頂いて、真に有り難い事であります。今日は私の六十(笑)六十一回目の誕生をお迎えさせて頂きました。今朝から沢山の方からお祝辞を頂きます。またはお祝いを頂きます。その中に、幾人もの方がこう言う様なご挨拶を言うて下さいました。
 親先生本当におかげを頂きまして、もし親先生がこの世に生を受けてお出でにならなかったら、私の一家は今度の様な事になっておったかと思うと、身の毛がよだつような思いが致しますと言う様なご挨拶を頂いた。又は親先生がもしこの世におられなかったら、今日の私はなかったかも知れませんと言う様なご挨拶を受けさせて頂いて、申しました事です。本当に貴方方が助かって下さる。あなた方一家が本当に助かって下さる。最近ここで言われます、本当の意味においてのおかげ。
 それは貧争病の無い世界。いよいよ輝く真善美の世界に、私共が住まわせて頂いて、日々神様有り難うございますと、お礼を申し上げた。家族中の者が拝み合うての生活が出来るようになる。そういうおかげの頂けれる人達が、またはそういう家族が私を中心にし、私の周囲に沢山出来て下さると言う事は、そのまま、私自身の助かりなのです。皆さんの助かりという事は、そのまま私も助かっておるのですから、私も皆さんにお礼を申し上げなければなりません。
 この世に大坪総一郎が生まれたばかりに、私の運命が狂うてしもうた。と言う様な事ではなくて、おかげで有り難い幸せの道を教えてもらい、分からせて頂いたという方達が、沢山出来て来ると言う事が、そのまま私の助かり。してみると、助かって下さる、また助かってくださった方たちに、私はお礼こそ言わなければならないと言うことになります。椛目合楽を通しまして二十五年間。それこそ数限りのない人たちが助かりました。いわば、一時的な助かりではありますけれども、本当におかげを受けました。
 けれども長年の間には、信心が挫折しました。それこそ消えて無くなっていくと言う様な結果になってしまっておる方も、沢山ございます。その方達には私も喜んでもらえない、その方達自身もまずは神を放し、信心を外して幸せになっていかれよるとは思いません。それを思います時に、今日のマルショウ諸君が、先ほど秋永先生が言われました。私が善導寺の教会で、その当時子供会と申しておりました。
 確かには覚えませんけれども、十一二ではなかったかと思うのです。今三井教会の総代をしておられます、岸先生が私と七つ上ですから、十八九の時では無かったかと思います。マルショウの指導をしておられました。この頃お国替えになられました、親先生が若先生として、学院を卒業して帰ってこられたばかりのようでした。三井教会のお玄関の敷き台に二人が腰をかけて、そして色々信心の話をなさっておるようでした。
 丁度日曜で私共が参ってそこへ暫く休憩をしておる時に、たまたま私はそこに手洗い鉢があり、その手洗い鉢の所へ立っておりましたら、岸先生と親先生当時の若先生がお話しになっておられました。私はここん所が、秋永先生のお話しがちょっと違っておりましたから、訂正と同時に、皆さん一つ覚えておって下さい。これは合楽の歴史の、一ページに加えて良い事だと思いますから、そのまま覚えておいて下さい。岸先生が親先生にこう言われました。若先生、沢山な事はいりません。
 一人でよいから本当の信者、真の信者を育てて下さいと言うお話をしておられました。それを私は、ここで聞かせて頂いたんです。だから本当の信者真の信者を一人でもよいから育ててくださいと言うておられるのを、私は聞きました。そん時に私の心の中にその本当な信者に、私がなろうと思いました。思いましたら途端に感動が湧いてきました。これは子供ながらどうにもできない。
 すぐこちらが当時みかん畑がありましたが、あまり感動して涙が流れるから、可笑しいからみかん畑の中に入って、涙を拭いた事でございました。私が本当の信者を目指そうと。真の信者になろうと。たった一人でと言われる、そのたった一人の私になろうと。私が、その時に意欲した事を思うた事を、天地が受けて下さったんだと思うのです。矢張り人間は、発願しなければいけないです。本当の真の信心を目指そう、真の信者になろうと。私が思うただけで、天地が感動ましました。
 お喜びになった。そのお喜びが私にかえってきて、訳は分からないまだ十か十一の少年の心の中に感動となって現われたのだと、これは今をもって思うのです。私が思うた事を、神様が受けてくださる。だから今日のマルショウ諸君が、本当に私達も僕達も本当の信心を身につけて、世のお役に立つ人にならせて頂こうと、本気で思うたらです神様がその事を喜んでくださいます。神様の喜びを裏切らない努力をさせて頂く事が、私は信心の稽古だと思うのです。そして私が生まれたと言う事がです。
 私一家の繁栄の元にもなれば、社会を明るくする事の元にもなる。天地の親神様というお方は、私共がおかげを受けて、神様あなたのおかげで助かりましたと言う事になりましたら、神様もようこそ助かってくれたと喜んで下さる神様なのです。私が助けてやったからというような神様じゃないです。それこそおかげで助かりましたという氏子の前に手をついて、おかげで私も助かった、神も助かったと喜んで下さる神様なのです。本当に手をついて喜んでくださる神様なのです。私共助かると言う事は。
 それこそおかげで神が世に出ると言う事になるのです。神様を現すと申しますけれども、現すと言う事ではなくて、神様が現われて下さるというおかげにならなければいけません。それには私共が本気で本心の玉を磨かせて頂く事に、今朝からの御理解を頂きますとです。とにかく素直にならせて頂こうという焦点を間違えずに、信心を進めて参りますならば、必ずや社会のお役にも立つ、人の為にもならせて貰う。又その家も繁栄のおかげになっていくと思います。是はマルショウの方達だけの事ではありません。
 お互いが本気で発願する。本当の信心を分からせて頂こう。真の信心を分からせて貰おう是は一生取り組ませて頂かなければならない事でございますけれども、今日よりも少しはましな本当な事が分からせて頂くと言う事が、日々の信心なのであります私共がそういう尊い有難い事を思わせて頂いただけでも、神様が感動して下さるそういう神様。私共と神様との関わり合いというものは、そういう関わり合いの中から愈々密なるもの、愈々有難いもの、愈々有難い御神徳が交流するようなおかげを頂いていかなければならんと思います。どうぞよろしくお願い致します。